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2012'02.01.Wed

色部と本庄・毛利安田と北條語り。あとちょっと重家も。

イベント予定にブログ拍手ありがとうございます。
うす。新刊がんばるす。

さて。
本日は最近ハマっている越後国人衆を語りたいなと。
ツイッターの文字数制限で語ったらウザイ人すぎるしね。ふふふ。
このサイトで上杉系トークを求められていないのは解っているが、しかし語る!

揚北衆といいますと。
新発田合戦は悲しい戦で、新発田重家はかわいそうな人で。
もともとはその程度の認識だったのですが。
大河で新発田合戦スルーされたときはふざけるなと怒りはしたけど。
でも基本的に、揚北衆のことは揚北衆好きの颯次郎に聞いておけばいいやと思って生きてきたのですが。

先の夏に「新発田治長ってだれだっけ」っていってたあれから約半年。
なんとなく気が向いて揚北衆のことを調べ始めたらこれが面白すぎてですね。
マイブームといいながら調べものにハマっておりました。
颯次郎に聞けば色々教えてもらえたけど、いやいや自分でと基礎からお勉強するのは楽しいですね。
上杉は好きだったから下地はあったにしろ、新鮮でしたよー。
もともと揚北衆好きの颯次郎は「こんな調べものをしたの」の語りに付き合ってくれるしで、どんどんのめり込んで気付けば半年。
自分の中に越後国人衆のmy世界観というかが出来上がってしまったら。
何か言葉にしたくてたまらないかんじ。
あでも力尽きると思うので、とりあえず本庄・色部。
あと重家関連で調べたら広がっちゃった安田・北條。

○色部と本庄
本庄を宗家とする秩父一族が本当に面白くて。
新発田は自分の中で別格なんですが、もうここの面白さがハンパないです。
本庄の当主のプライドの高さがたまらない。
本庄と色部の「近所之儀」(近隣同士や家中でトラブルがあったら、第三者の御近所さんが介入して調停する)でもお互いのお世話になりあう感じが本当にツボにはいりました。
色部勝長が幼い頃には本庄房長が色部の家中騒動を調停し。
本庄繁長の時代には色部勝長が本庄の分家である鮎川と本庄の騒動の調停をし。
お互い様ね。てかんじがかわいくて好き。
本庄繁長が上杉謙信と対立した乱で、本庄は城に籠城するも降伏を目の前にしていた情勢のとき。
謙信の軍のひとつとして城を囲んでいた色部勝長は、本庄の攻撃を受けて戦死。
本庄は色部が憎かったのかと思うより、戦で将が死ぬことはよほど稀という時代だったそうですから、むしろ本庄のほうが自分たちが勝長本人を殺したことに驚いたのではと思ってみたり。武人の戦ですから、戦士の可能性はゼロではないにせよ。勝長の死は病死説も混ぜてなにかドラマチックな妄想を掻き立てられるのです。
ここまでの色部と本庄はどっちにつくつかないなどで多少対立はあってもあまり仲が悪い印象はないのですが。
その後、勝長の息子の時代には領地争いが起こっていて。
父親の死の原因が繁長にあったからだろうかと思ってメラっとしました。
謙信時代はその後冷遇されるも(戦力外扱い)、景勝時代になって本庄復権。
さらに本庄は新発田の乱が起こることで揚北衆の盟主的地位を強くし、新発田の乱が収束すると今度はその地位が強くなりすぎたことを景勝政権に警戒され、力を削がれたり(他国との外交が本庄を介さずに行われたり)。色部を本庄の替りに据えたり。
それを本庄はどう思って、色部はどう思ったのかと想像すると…楽しすぎる。
あ。鮎川は色部アニキのいうことはききますな感じがたまらなくかわいい。

○安田毛利と北條
新発田合戦の絡みで、発端のひとつとなった顕元の自害を調べているうちに、大江毛利の一族、安田と北條が複雑で面白くなりまして。ひとつひとつ紐解いていくのが楽しかったです。
御先祖からして、総領息子と父親が仲良くなかったので弟に総領権あげたとか複雑。
さらに安田と北條の当主が同じ人だった時代があったり、北條と安田の当主に近い血縁関係が生まれたり、系譜見ているだけで親子同じ名前で混乱したり、いやこれは引退したら親父の名前に改名したのではとか収拾つかない説があったり、とにかく一次資料だけだと判断できないから想像で埋めました!みたいな説が跋扈してて、自分が今まで調べた武将系譜の中で、こんなに二次資料と想像だけで埋めて説を立てられていることってなかったので新鮮でした。
相模の北条と越後の北條の手紙のやり取りで、相模はうちが名門なのでそっちが紛らわしいていう意識があるようで、越後北條の「北」を当て字に表現していたりして、でも当初の越後北條は決して自分のことをその当て字で表現しないとか。大江毛利の一族だって名門ですよのプライドの高さがたまらないのですが。
安田・北條を調べ始めたきっかけになった毛利顕元ですが。
御館の乱の後の恩賞への不満(新発田・五十公野にとってはむしろマイナスですから)の聞き入れなさとか、顕元が感じた絶望のようなものや、顕元の自害込みで重家がそれをどう感じたのかに思いを馳せると、いや重家の降伏助命はなかったよと思うというか。五十公野の夫妻も死亡しているしね。
重家に対しては、降伏せずに討ち死にした武将英雄的な印象よりは自分だけ助命とかはない、みたいな。後のなさを感じてしまいます。
て、途中から重家話になったよ。
新発田合戦話はまた今度にといおうと思ったのに漏れ出た。

…重家語りはまた今度ゆっくり(笑)

うす。では創作活動にもどるます。



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