ブログ拍手ありがとうございました~。
身内様かしら~。
新発田の乱ゆかりの史跡にいきたい!
そんなコンセプトで巡ってみました。
が、途中で日が暮れて予定の半分くらいしかまわれませんでした。
残りは後日リベンジということで。
新潟城跡、白山神社。
あくまで暫定らしいですが。
新発田重家らが新潟島のいずれかに新潟城を建設し、景勝さまに反旗を翻したことで合戦がはじまった。
ということで、まずはここからスタートしないと!と拘ってみました。

ちなみになにか説明文があるわけではないので。
神社にお参りして戦勝祈願したり(どっちの…)、公園内で飼われている猿をみて景勝さまが微笑んじゃう!って喜んだりできるくらいです。
そして木場城。天正9年景勝方によって築かれた平城で、対新発田方との前線基地。
本丸に蓼沼友重、二の丸に山吉景長らを配置し、舟を使って火矢を放つ焼き討ち合戦だったという内容の説明看板があります。
宮の森・木場城公園です。正確な位置はわかっていないけど木場城は木場集落の西端にあったと推測される…ということでここにつくったようです。

「木場城」という名のアスレチックがありました(笑)
アスレチックに瓦までつけちゃったか!
ジャングルジムとか縄網などと融合しております!
もちろん、攻めてみるであります。

歩幅がお子さんに合わせてある階段で大変攻めにくくございました!
公園の中央は木場八幡宮になっています。

お参りしてから探索を続けます。
公園の端に「木場櫓」という名称の櫓?があります。
こちらも登れます。

物見の高台風味。
続きまして、水原城跡。
江戸時代には水原代官所が置かれていました。

しかし。代官所は月曜日は休館日なので閉門(笑)
観光案内所のおじさんには「近くに足湯があるからそっちに寄っていってー」と気を遣われる。
水原常陸介親憲碑。水原氏最後の水原城主。

ふとおもったのですが。
溝口くんもそうだけど揚北の江戸時代の藩主とか統治者ってやたら国人衆を大切にする気がする。
この碑のそばの碑文は簡単に水原城について解説しているのですが。

水原氏による統治246年間。
国人の土地との結びつきを考えると、どきどきしてくるのはわたしだけですか。
1582年。景勝方だった水原城は第一次新発田戦、法正橋合戦で水原満家が戦死して新発田方が占拠。
1587年。新発田方だった水原城を景勝方が落とし、水原常陸介(当時は大関なのかな)が入城。
こちらは安田城跡。
伊豆の大見氏が地頭として着任し、土地名の安田を名乗って大見安田氏となりました。
の、説明看板があります。

他にも安田藩のお城の説明とか、お堀の説明の立て看板があったはずなのですが。
安田藩の安田城の説明文は劣化して読めなくなっていましたし、お堀の立て看板はなくなっていました。
…整備しなおしてくれると嬉しいなあ…。
御館・新発田の合戦とも同じ一族の水原氏と同じく景勝方に着いた安田治部少輔のお城です。
水原氏と安田氏がいつもいっしょで仲良しなイメージがあるのは絶対颯次郎の影響だと思う…。
むかし「水原氏ってなにー?」ってきいたら、「安田の親戚!新発田と五十公野みたいなもの!」っていってたもん。新発田・五十公野に例えられたらずっと一緒!選択肢一緒!みたいな印象ついちゃう(笑)
でも安田が宗家・水原が分家という関係は、新発田合戦当時の新発田・五十公野の関係に確かに被る気がする。重家にとっては新発田が実家なわけで、宗家のような存在というか。
笹岡城。
かつて、上杉謙信の猶子・山浦国清の居城。
新発田方に新潟城・阿賀野川下流を押さえられていた景勝方は、五泉・三条を経由してこの笹岡城を拠点にして新発田領を攻めた「前線基地」だったとのこと。

山浦国清がここの城主だったのは1560年くらいまでと説明されていて。
新発田方に落城させられているのに、なんでお兄ちゃんずっと生きているんだろうって思っていたのですが。
すでに海津城に転封していおいでだったんですね。なるほど!
十郎杉。城楼杉、女郎杉。いくつか異名があるようですが。
推定樹齢は約400年。と説明している看板がいつ立てられたものなのか古い(笑)

名前の由来の推測もいくつか書かれているのですが。
天正・元亀の頃に笹岡城の望楼の役目を果たしていたからという解説がきれいでいいなあ。
本丸。公園になっています。土塁が確認できたり。
ぐるっとまわれば空堀や二の丸・三の丸も見られるそうですが、足元ぬかるんでいたので確認できず。
いや、暖かくて晴れた日なら喜んでまわるけど。

本丸から少し下って神社には今井氏と今井氏の家臣のお墓があります。
ここでだいぶ暗くなってきまして。
順番が変わるけど、せっかくだから新発田城みておこうかと話をしておりましたら。
水原八幡宮に杉原常陸介が奉納したってかかれた碑があったよ、「杉」になっていたけど常陸介って水原くんだよねーと連れが言い出しましたよ。
水原なのに「杉原」って徳川が書き間違えたから自分の名前を杉原にしちゃった逸話の名前表記かー!
それみたい!と急遽わがままを言い出すみずほさん。
場所は瓢湖の向かいときいてナビに「瓢湖」って打って向かいましたら。
あった、あった。

こちらが碑。

水原八幡宮の由緒や、かつては杉原常陸介が、のちは溝口氏が毎年米を奉納していました、との内容。
そして新発田城についたころにはこんなかんじにどっぷりと。

閉館時間もすぎていたので、断念。
新発田合戦のメインに到達していないー!(笑)
赤谷・五十公野・新発田各城はまた今度の機会にいきますー;
うん、新潟城到着したころにはすでにお昼近かったしなぁ;
あれですよ。新発田城攻めは1回じゃ終わらなくて何度もこう着状態が続いたみたいなものですよ、きっと。
これが本当の話だと、最近知りました。
何故か悲しい(;_;)
通りすがり:2011/11/29(火) 07:09 | URL | [編集]