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2011'09.24.Sat

「上杉家家臣団」特別展図録やっと読んだー。

上杉博物館の特別展図録、先週購入したもの、ようやくさらりとですが読み終わりましたよー。
順不同で、感じたこととか。

・謙信公世代と景勝さま世代、あと少量ですが定勝さま世代、誰がどの世代に仕えていたのかが解りやすかったです。
・兼続生誕450年記念になっていたからどきどきしたけど、思ったより兼続資料少なくてよかった。
・いや、兼続が嫌いなのではなくて、他の人の史料じゃないと改めて買う意味ないので。
・揚北衆がいっぱいだったー。
・新発田の家はパパ・お兄ちゃん・重家と要所にでてきて幸せー。
・「もしこんな仮説がゆるされるのだったら、こうだったのかもしれませんね」という表現が好きです。史料を発展させつつ断言しない、そんな表現は大好きです。
・揚北の中条さんと黒川さんのケンカが順を追って、いろいろな人のお手紙で説明されていて楽しすぎる。
・中条さんが病気で署名できませんでしたのお手紙載ってた、きゅん。色部の当主は子供なのでそもそも署名ありませんに二度きゅん。
・景勝さまの執政の狩野秀治さんの出身にも触れられていてきゅん。尼子家ですって、有名どころだよ、きゅん。
・白石城が落とされたとき、留守番を甘糟景継の弟がしていたのは聞いたことがあったのですが。そのまま伊達家の家臣になって何代も藩士として仕えたエピソードとか。登坂の名前ってことは、景継が甘糟に養子に入った後、その弟くんが登坂を継いでいたのかな?そりゃ、伊達の殿も景継に「ウチにこいよ!」って勧誘するね!こっちには弟もいるしさって!
・上条入道って上杉家の有力者なイメージが強かったんですけど。土地自体はそんなになかったのかな?軍役みるとそんなに多くないのですね。身分の高さと発言権は強かったけど、土地的にはそんなでもないのかな?外交上に必要な身分は高かったけど、旧家再興してもらっただけで領地は多くなかった?だから養子の跡目争いのときに第三の勢力にならずに片方についたのかな。他家を継いでいたから自らは名乗りを上げなかったというなら、景勝さまだって上田長尾家の当主だったし。あ、でも上田長尾家は名目上は廃嫡された景勝さまの兄上が継いでいたのかな…、いや、長尾の家臣に景勝さまが感状をあげてた。やっぱり兄上じゃなくて景勝さまが継いでいたからからだろうし。…という脳内妄想が止まらなくなりました。
・前田慶次と表現した文書があってあれ?とか思ったり。上杉家の家臣を書いた文書。原文は17世紀となっていて。原文は江戸時代初期なのね。ってことは前田の名前は慶次郎で断言じゃなくて、慶次の説があっていいんだ。書き写す時の誤字で慶次にしちゃった文書でもない限りは。むしろ「慶次郎」だけが正しいと思っていたので新鮮な衝撃。
・公家さんの書状を書くときのマナー手解き書とかあって笑った。
・謙信さまが景勝さまをすごく大事に扱っているお手紙ばかりできゅん。
・政景パパが宇佐美さんを「謙信の味方についた裏切り者」みたいにいってたお手紙あって、そんな思い出話を二人で酒飲みながら舟の上でしてくれないかなぁという妄想を抱いて遠くに行きそうになりました。創作戦国描きたいな(笑)ちび景勝さまと。
・誰が誰の取次ぎをしていてーという知識が雑学的に入ってきてお手紙やっぱり楽しい!



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